謡曲と新内
昨日はかなり過激な内容だったかも知れません。しかし一歩ずつでも、アイデンティティを見直す方向に行ければ、何かが変わってくると思いますが、いかがでしょうか。
さて、今日はまたまた古い記事ですが、96年に書いた(もはや化石のようなw)記事から抜粋しつつ、もう一下り私的邦楽歴を追ってみたいと思います。実は、謡いの稽古に通えたのも95年だけで、その後はなかなか大変になってしまいました。隣町の松山は謡曲の盛んな所なので、いつか再開したいものです。
(以下96年刊の雑誌「Etcetera」より抜粋)
1.謡いとの出会い (抜粋)
謡いをやって気がついたのは、伝承はかなり口承によっていることである。謡本にはゴマ節(喜多流の場合の名称)という音の上げ下げ、節回しの記号がついているが、西洋音楽のように音高を確定するものではなく、相対的な音程関係のめじるし程度のもので、細かいことは稽古の場で決まってくる。グレゴリオ聖歌のネウマ譜や、ユダヤのトーラー(モーセ五書)朗唱にはタアメイ・ハミクラアと言う記号があるが、全体にはそれらの伝承方法と似ていると思った。謡い方は弱吟(和吟)、強吟、語りの部分の3通りあるが、音程関係が明瞭なのは弱吟だけで、強吟は記号どうりには解析できない難しい謡い方だ。
前に述べたように、能楽は日本音楽における「Bach」的な役割を果たしたと思う。それ以前の仏教声楽等からの影響を統合し、それ以降の浄瑠璃やその他の三味線音楽の流れに深い影響を与えている。日本文学研究者のドナルド・キーン氏も「前に能がなかったならば、浄瑠璃の出現は考えられない。」(「日本の文学」 中公文庫)と語っている。
2.江戸遊里の音曲・新内節
謡いをやって日本音楽(特に語り物)の面白さに目覚めた私は、新内という浄瑠璃についての小泉さんの言葉を思い出した。浄瑠璃には古い順に義太夫節、一中節、豊後節、宮園節、常磐津節、新内節、清元節等があるが、ではその中でなぜ新内なのか。新内を聴いたことのなかった私は、常磐津をやっている同じ職場のE君に聞いてみた。生で聞いた経験がある彼によると「常磐津や清元とは違う特殊な音楽」という風な返事だったと思う。関心を持った私は以下の一枚を買って帰って聞いてみた。
それは「蘭蝶」と「明烏」の新内2大名曲の聞き所を納めたCDだが、富士松鶴千代、富士松小照の2大女流名人による悲哀に満ちた語り(浄瑠璃)は、絶妙なタイミングで撥を下ろすリード三味線(?)と上調子(カポタストのような枷を付け音を上げた三味線)に支えられ、テンションの高い、密度の濃い、それでいて飽くまで粋な空間を作り出す。
常磐津や清元と音楽的に違うところは、曲調のテンションによって「間」(リズム)が伸びたり縮んだりする、常間でない音楽だと言うことだ。節回しも表の声と裏声を連続して使う上に、テンポはゆったりだが産み字(母音)を細かく処理する難しい歌唱法だ。歌舞伎の舞踊音楽として発達した先の二者と違い、吉原を中心とした遊廓の座敷芸、あるいは流しの音楽として伝承されてきた新内は、テーマとしては遊女の悲恋物語、心中物が多い。新内節の親に当たる京都出身の豊後節では、やはり心中物が中心で心中事件が増えるとの理由で、幕府から江戸での演奏禁止令を出されている。新内でも「明烏」を聞いて遊女が心中して困ると、楼主から苦情が出ていたそうだ。情死など現在の吉原では考えられない話だが、当時は「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という川柳が読まれるほど悲惨な境遇だったのだ。
「客にとっても遊女にとっても深みにはまりこそすれ、這いあがることの出来ないように仕組まれた世界、自由のない境涯、そこを抜け出て真実の愛に生きようと念ずる者たちにとって、新内節は呪術的とも言ってよいほどこ惑耽溺の節調であろう。やるせなさ、脆さ、切なさ、儚なさに沈りんしている陋巷の人々の耳朶をうつ、素裸の人生の深奥の叫びであったに違いない。」(関光三「いきの源流-江戸音曲における゛いき″の研究」六興出版)
また新内界現役最長老(96年当時101歳! 同年死去されました)の岡本文弥氏は次のように語る。
「新内に描かれる世界は、廓(くるわ)の女たちの哀切なんです。だから新内は、楼主やそこから利益を受けている人間には迷惑な存在だった。だから新内は反権力の芸能だと私は考えています。...」(岡本文弥 朝日新聞「聞く」より 日付け不明)
新内古曲だけにとどまることなく、左翼的な新内を作曲演奏し、樋口一葉や泉鏡花の小説に作曲したオリジナル曲を発表するなど、文弥さんは停滞していた新内を活性化した。
ペルシアの太鼓を叩きながらも、新内の門を叩かずにいられないところまですっかり盛り上がってしまった。小泉さんが「新内や義太夫は専門的訓練を経なければ、その面白さの片鱗も表せないという難しい三味線音楽です。」と言っていたにもかかわらず。また、新内は大体遊女がヒロイン(?)なので、女流の方が良いと思いながら。
(最近は岡本文弥氏のCDをよく聞いているのと、そもそも新内の元祖は鶴賀若狭じょうという男性だと言う事実から必ずしもそうではないと思うようになった。)
そしてとうとう富士松鶴千代さんに入門した。「蘭蝶」の方は百回くらい聞いていたので、有名な「四谷の段」などは節も文句もすっかり覚えていて、いきなり師匠の三味線と合わせていただいた。
「名にし負う 隅田に添いし流れの身 名に流れたる桜川...四谷で初めて逢うた時 好いたらしいと思うたが 因果な縁の糸車 廻る紋日や常の日も
新造禿にねだらせて...」
隅田川を渡ったり、四谷を通るとつい頭に浮かんでしまう。
「謡いと新内は対極にある」と師匠は言われたが、平井澄子さんの例もあるので、私も合わせて見ていきたいと思っている。
3.新内ゆかりの地を歩く
新内ゆかりの場所は、台東区に多い。特に浅草から三ノ輪(箕輪)にかけての交通の便の良くない場所に固まっている。その中央に吉原があって、今でも地図で見ると廓(くるわ)の外周を巡っていたお歯黒どぶ(遊女の逃亡を防ぐために張り巡らされた溝)の跡がはっきり分かる。その中央の道が吉原仲の町で、遊廓の頃はメイン・ストリートで桜の名所だったが、今はソープランド街になっている。北東部にある入り口は吉原大門跡、出ると衣紋坂(えもんざか)という曲がった道になっていて、江戸時代にはここに歌麻呂や写楽を送りだした蔦屋重三郎の店があった。隅田川から山谷堀に船で入って、待乳山聖天を見ながら日本堤を北西の方に行くと、三ノ輪の浄閑寺に出る。永井荷風が断腸亭日乗でしばしばふれている浄土宗の寺だ。別名投げ込み寺とも言われ、吉原遊廓で死んだ遊女が2万5千人くらい葬られているという。荷風は遊女の哀れな死を悼み、しばしばこの寺を訪れ、死んだらこの寺に葬って欲しいと語っていた。結局、彼の墓はそこには建たなかったが、毎年4月30日の荷風忌はこの寺で行われている。寺内の新吉原総霊塔には、前述の「生まれては苦界、死しては浄閑寺」の川柳が刻まれている。
「びんのほつれは枕のとがよ それをおまえにうたぐられ つとめじゃエエ
苦界じゃ ゆるしゃんせ」
小唄「びんのほつれ」
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