ワヒーはイラン系+フンザの絶景
昨日はブログを書こうとしたら、猛烈な睡魔に襲われて、危うく日付が変るところでしたf^^;
ワヒーについてもう少し調べてみましたら、パキスタン(上部フンザ)、タジキスタン、アフガニスタン東北部にまたがって住んでいる民族で、各国に約1万人ずついる(但し1983年の時点)イラン系民族のようです。そういえば今日の一本目の女性の衣裳などは、ウイグルのタシュクルガンのタジク(同じイラン系民族)の衣裳にも似て見えます。しかし、古代バルカンのイリュリア系(もし正しいとすればですが)とイラン系の民族がパミールで隣り合って住んでいるというのは、何とも不思議です。Wakhiについて詳しくはこちら
フンザ~バダフシャンらしく、シーア派の中のイスマイル派に属する住民がほとんどだそうです。グノーシス寄りの神秘主義的な側面は、昨日の男性の踊りには感じられたような気もしますが、今日の女性の群舞は一転してとても美しく華やかな印象。中央アジアのイラン系とインド的な音楽の要素が上手くブレンドされてます。
最後に「桃源郷」フンザの素晴らしい写真がアップされているサイトのリンクを載せておきます。7、8000メートル級の高山を望む景色は、PCで見ても息を呑むような素晴らしさです。ヒマラヤの中心地ネパールよりも乾燥していて、霧なども少ないのでしょうか。もの凄くクリアな色彩の景色が目に飛び込んできます。こんな絶景を見たら人生観が変るかも知れませんね^^
Wakhi Song (Zulfiqar 's www.gojal.net collection)
Wakhi Song 1 (Zulfiqar's www.gojal.net collection)
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コメント
最初のビデオは、フンザの映像ではなくて、新疆のタシュクルガンの映像ではないかと思います。タシュクルガンだとしても、ワヒ語の歌が歌われてもおかしくはありませんが。中国でタジク人と呼ばれているのは、実はサリコル人とワヒ人の2つの民族で、サリコル人が2万人、ワヒ人が7~8千人くらいで、タシュクルガン・タジク自治県に主に居住しています。
投稿: hasuge | 2008年10月25日 (土) 16時05分
>hasuge様
いつも有難うございます。そうなんですか! 驚きです。そういえば山や景色に見覚えがありますし、衣裳が余りにそっくりだと思いました。昨日出てきた1983年の統計上はウイグルにはワヒ族はいないことになっているようです。何か政治上の綾があるのでしょうか。それとも中国での認識が足りないだけなのでしょうか。そして彼ら自身にはタジクではなくワヒだとの自覚があるのでしょうか。また先日のグルビタはどちらの民謡になるのでしょうか。(質問ばかりで済みません)
投稿: Homayun | 2008年10月26日 (日) 00時34分
Pasu村でワヒのおじさんに聞いた話ですが。ワヒ語はタジク語の一種なので、国境を越えてパミール全域で通じるんだよ、とのことでした。グンジェラブ峠(およそ4000m)は難所とはいえ、シルクロードの要所でもあり、昔から人の行き来はあったはず。仏教が来た道のひとつでもあるわけですね。ちなみに2本目の映像の10秒目くらいに一瞬だけ「中国」という看板が見えますが、あれがグンジェラブ峠に立っている標識です。想像ですが、パキスタン側のタジク系民族と、中国側のタジク系民族が峠で交流しているのではないでしょうか。政治的に長い間交流が断絶して言語なんかが多少変わっていても、音楽のリズムや踊りのステップなんかはぴったり合ったりしますからね。このあたりの最近の状況は、アガ・カーンの支援にも注目すると面白いかも。スミソニアンの中央アジアシリーズもアガ・カーンの後押しですよね。
投稿: クリッタ | 2008年10月26日 (日) 09時21分
中国では、ワヒ語もサリコル語もタジク語の方言という見解ですので、ワヒ人とサリコル人を独立した民族と認めず、タジク人として一纏めにしているのだと思います。ワヒ語話者にはタジク人という意識はあるでしょうが、ワヒ人意識については分かりません。それから、グルビタですが、テズナプというサリコル語圏の村での調査で採取された曲にこれがありましたから、サリコル語でしょう。
投稿: hasuge | 2008年10月26日 (日) 15時07分
こんにちは。通りすがりの者ですが、
現代タジク語がアフガンのダリー語やイランの現代ペルシア語に連なる言語であるのに対し、ワヒー語などパミール諸語は同じイラン系でも昔のソグド語に近い別グループに属します。両者の違いは大きく、普通のタジク語の話者にはワヒー語は理解できないですね。それどころか、パミール諸語同士の違いも大きいため、例えばタジキスタン領のパミール地方だとワヒー語はワハーン渓谷という一部の地方でしか通用しなかったりします。ただ、学校教育はタジク語で行われるので、ワハーン渓谷の人々の多くはタジク語とワヒー語のバイリンガル、もしくはそれにロシア語を加えたトリリンガルですが。
ところで、中国のワヒーとサルコリがなぜタジク人に分類されてるかという話なのですが、どうもソ連の古い民族学的分類法が原因らしいです。ソ連時代の初めの頃、パミール系諸民族は「タジク人」と分類され、その言語はタジク語の「方言」とみなされていました。毛沢東の中国は、社会主義国家建設にあたって全ての面でソ連をモデルとしたわけですが、それは学術の面でも同様です。新疆辺りの民族の分類の仕方は、当時のソ連式をほとんど直輸入したような感じなのです。
投稿: karategin | 2008年10月29日 (水) 04時05分
>karategin様
遅レスになりましたが、毎回貴重な情報を有難うございます。霧が晴れるようによく分かりました。ワヒー語はソグド語に近いのですか! サルコリ語もそうなのでしょうか。だとすると中国には狭義のタジクはいないことになり、ワヒーとサルコリどちらかの祖先はもしかしたら新疆にウイグルなどのテュルクが入ってくる前からいたイラン系民族の末裔の可能性もあるのでしょうか。
投稿: Homayun | 2008年10月30日 (木) 18時53分
>Homayun殿
人種的に言えば、パミール系の諸民族だけではなく、タジクとかウズベクとかウイグルといっ中央アジアの定住系の民族は(程度の差こそあれ)いずれもソグドの血を受け継いでいるわけで、ソグドの子孫だと言えると思います。確かにテュルクと混血する場合もあったでしょうが、単に言語的にテュルク化してしまった元ソグドはそれ以上に多かったと思うのです。これはカフカス地方やアナトリアでも同じことです。
ただ、イスラーム化後の中央アジアのオアシス地帯では、アラブ語からの借用語を大量に含んだ広義のペルシア語がソグド語を駆逐してしまいます。
その後、ソ連時代まではイランとアフガンと中央アジア南部ではペルシア語が共通の文語として使われていたのですが、ソ連中央は自国領のペルシア語の話者を国外のイラン文化圏やイスラーム世界から断ち切るためにそれらの人々を「タジク人」と命名し、口語に基づいき、アラブ文字ではなくラテン文字(後にキリル文字)を用いる新たな文章語「タジク語」を使わせるようにしたのでした。
パミール系の諸民族というのは、あまりにも僻地に住んでいたために、イラン系ながらも言語的にペルシア化されそこなった人たちだと言えると思います。とはいえ、ソグド語に近いというのはあくまで現代タジク語と比べた場合の話ですね。いわば傍系です。ソグド語の直系の末裔にあたるのはヤグノービーと言われる言語でして、タジキスタン西部の山岳地帯のある小さな村で細々と話されています。
投稿: karategin | 2008年10月31日 (金) 02時22分